Vol.1886: 「日本人の9割に”折れる”概念はない」——そのご指摘は正しい。だからこそ円は、誰にも気づかれず静かに折れる

〇この記事を読むのに必要な時間は約12分です。

埜嵜 雅治

執筆者埜嵜 雅治

Meti Lux Partners 
代表取締役CEO

MLP INVESTOR COLUMN | 日本 / 為替

昨日のコラムでお伝えした「円を折るのは金利差でも介入でもなく、日本人の”心”が折れた瞬間だ」という見立てに対し、ある投資家の方から本質を突くご反論をいただきました。「そもそも9割の日本人に”折れる”概念はない」「暴落ではなくジリジリの円安だ」「米中対立下で日本は製造拠点として不可欠になり、朝鮮特需が再来する」──いずれも一級の論点です。逃げずに、投資家目線で正面からお答えします。

読了時間
約7分
対象読者
円安は「暴落」か「ジリ安」か迷っている方/円資産に偏りがある方/製造業回帰と為替の関係を整理したい方
この記事で分かること
なぜ「情報が届かない」ことが暴落リスクを高めるのか/ジリ安と暴落が対立しない理由/”朝鮮特需の再来”論の妥当性と限界/見立てが違っても打ち手が同じになる非対称性

いただいたご質問の要点

まず、頂戴したご意見を要約させてください。論点は大きく二つです。

ご反論①:そもそも「折れる」概念がない
すでに心が折れている人はいるが、9割の日本人には「折れる/折れない」を判断する情報そのものが届いていない。仮に届いても理解できない。ゆえに「心が折れて暴落」という筋書き自体が成り立たないのでは、というご指摘。
ご反論②:暴落ではなく「ジリ安」だ
長期の円安方向には同意。ただし「心が折れての大暴落」ではなく、ジリジリとした持続的な下落だろう。むしろ米中覇権戦争下で日本は米国の「製造拠点」として不可欠となり、朝鮮特需に似た状況が来る。政府が財務省の緊縮圧力に負けず適切な国内投資で供給力を高めれば、円安ペースはむしろ鈍る、というご意見。

どちらも、相場を「数字」だけで語る通説より一段深い視点です。順にお答えします。

ご反論①への回答──「折れる」は”理解”ではなく”体感”で起きる

まず結論から申し上げます。「9割に情報が届いていない」というご指摘は、完全に正しい。そして、それは昨日の私の主張を否定するどころか、むしろ補強します。

通貨が折れるのは、国民の多数が金利差や国際収支を「理解」したときではありません。歴史上、いかなる通貨危機も「大衆が正しく理解して」始まったことはない。最初に動くのはいつも、情報を持つ少数──富裕層、事業法人、外貨に日常的に接する層です。彼らが先に静かに資金を移し、遅れて大衆が「体感」で追随する。この時間差こそが、危機の正体です。

「折れる」は知的な出来事ではない。卵が倍の値段になったと”財布”が感じた瞬間に起きる、極めて身体的な現象である。

多数派は経済理論を理解しないまま、それでも「モノが買えない」という生活実感だけは、確実に、そして一斉に共有します。理解が要らないからこそ、点火は速い。そして「概念がない」人ほど、自衛のために動くのが最も遅れる。皆が「おかしい」と気づいて出口に殺到したときには、扉はもう狭くなっている──これがトルコ、アルゼンチン、そして私たちが現地で見たエジプトが、繰り返し証明してきた順序です。

つまり「9割に情報が届かない」という現実は、暴落を否定する根拠ではなく、逃げ遅れる人が9割になるという、より重い警告なのです。

ご反論②への回答(前半)──「ジリ安」と「暴落」は対立しない

「暴落ではなくジリジリだ」というご意見に、私は8割方、同意します。メインシナリオは、まさにご指摘の通り、じわじわとした持続的な円安でしょう。ここに異論はありません。

ただ、ジリ安と暴落は択一ではないのです。有名な言葉があります。「破産はどのように起きるか?──ゆっくりと、それから突然に」。通貨も同じで、ジリ安それ自体が生活実感を少しずつ削り、ある閾値で心理が反転する”燃料”を静かに溜めていきます。ジリ安は暴落の反対物ではなく、前段階になり得る。

整理すれば「ジリ安が基本(高確率)、暴落は裾(テールリスク)」という関係です。そして資産防衛とは本来、高確率のシナリオではなく、起きたら取り返しのつかない裾のシナリオに備える行為にほかなりません。

ご反論②への回答(後半)──”朝鮮特需の再来”論を正面から検討する

最も刺激的なのが、この製造拠点論です。これは日本にとって立派な強気シナリオであり、頭ごなしに退けるべきものではありません。まず、ご指摘を裏付ける事実を並べます。

フレンドショアリングは現実に進行中
米中デカップリングの中で、同盟国内に製造能力を置く流れは本物。TSMC熊本(JASM)は3nm世代へ計画を格上げし、投資額は2兆円超。ラピダス千歳は2027年の2nm量産を目指し、総投資は7兆円規模。「経済安全保障」を旗印に、国内投資は確かに増えています。
円安が製造競争力を後押しする
弱い円は、国内生産のコスト競争力を高めます。輸出と国内回帰(リショアリング)の追い風になり得る。これらが実を結び供給力が実際に高まれば、貿易・経常構造が改善し、円安ペースが鈍る──というご指摘のロジックは、理論的に正しい。

ここまでは、ご意見に賛成です。その上で、投資家として見落とせない「限界」も、正直にお伝えしなければなりません。

製造拠点論は「正しいシナリオ」だ。問題は、それが”間に合うか”である。工場は年単位で建ち、為替は秒単位で動く。

供給力の天井は、結局”人”
工場を建てても、動かす人材と労働力が足りなければ供給力は増えません。人口減少・人手不足は、供給力拡大の構造的な上限になります。
前提の「政府が緊縮に勝てば」が重い
これは経済の話ではなく、政治の”賭け”です。財務省の緊縮圧力が退くという前提が崩れれば、シナリオごと崩れます。この前提が成立する確率を、私は楽観していません。
時間軸が決定的にズレている
TSMC・ラピダスの本格稼働は2027年以降。再工業化が家計や為替に効いてくるには年〜十年単位の時間がかかります。だが為替は、その完成を待ってはくれません。
朝鮮特需との決定的な違い
あの特需は、1ドル=360円の固定相場と、米国による直接のドル支出という特殊条件下で起きました。今は変動相場。同じ「特需」でも、為替への波及メカニズムはまったくの別物です。

結論として──製造拠点論が実現しても、それは「円安が止まる」話ではなく「円安のペースが鈍る」話です。方向は依然として円安であり、しかも成果が出るまでには長い時間差がある。あなたのシナリオが正しくても、なお「その間の円安」に備える必要は消えないのです。

では、どちらが正しくても──打ち手は「同じ」になる

ここが本日の核心です。ご質問者と私の見立ての違い(ジリ安か暴落か、特需で鈍化するか否か)は、実は投資判断をほとんど変えません。3つのシナリオで考えてみてください。

シナリオA:ジリ安(あなたの説)
外貨・海外資産への分散は、時間をかけて着実に効く「低リスクの一手」になる。慌てる必要はなく、損もしにくい。
シナリオB:暴落(裾リスク)
同じ分散が、資産を守る「命綱」になる。事前に用意していた人だけが、扉が狭まる前に選択肢を持てる。
シナリオC:円高反転
このときだけ分散は「機会損失」になる。だが──製造拠点論という最も強気なシナリオですら、生むのは「円安の減速」であって「円高への反転」ではない。つまり、あなたの説に立っても、Cは最も来にくいのです。

3つのうち2つで分散は有効、残る1つ(円高反転)は、ご質問者の説に立ってもほぼ起きない。この非対称性こそが、「見立てが違っても、外貨の選択肢を一部だけ持っておく」ことが合理的である理由です。

分散とは、相場を当てる技術ではありません。どのシナリオが来ても、選択肢を失わないための設計のことです。貴重なご反論に、心から感謝いたします。

⚠ 注意

本コラムは相場予測や売買の推奨ではなく、資産構成を考えるための情報提供です。為替は円高方向にも動き得ます。特に、介入や急変動を狙う短期・高レバレッジのFXは、ロスカットリスクが極めて高い局面です。分散の目的は「当てること」ではなく、どの方向に動いても対応できる状態を保つことにあります。

💡 投資家の視点

「ジリ安か暴落か」の論争は、実は出口戦略にはほとんど関係ありません。判断すべきは”いつ折れるか”ではなく、”逃げ道が開いている今、選択肢を用意したか”です。① 資産の一部を外貨建てに移す、② 海外銀行口座で通貨を物理的に分ける、③ 海外不動産のように為替と実物の両面を持つ資産を組み込む。平時である今こそ、静かに「出口」を一つ用意しておく。それが、どのシナリオにも共通する唯一の備えです。

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出典・参考

・Meti Lux Partners「Vol.1885:一時157円台、日米連携の”円買い介入”──円を折るのは金利差でも介入でもない」(2026年7月31日)
・日本経済新聞 xTECH「TSMC、熊本で3ナノ生産へ 設備投資2兆円超の公算」(2026年2月)
・経済産業省「次世代半導体等小委員会」資料(2026年4月)
・Rapidus 資金調達・量産計画に関する各種報道(総投資7兆円規模/政府・IPA出資、2026年)
・家計金融資産・外貨準備・為替介入額の各種公表データ

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