
「イエメンとサウジアラビアの戦争が激しくなっている」――ニュースの見出しを見て、ふとこう思った方は多いはずです。なぜイエメンはサウジを攻撃するのか。そもそもイエメンとは、どんな国なのか。本稿では、紀元前の「幸福のアラビア」から2026年秋の再燃まで、1,000年以上の歴史をじっくりたどりながら、この問いに答えます。そのうえで、紅海・原油を通じて私たち投資家にどう波及するのかまでを、図解で整理します。
目次
- 1 いま、何が起きているのか
- 2 第1章 古代――「幸福のアラビア」とシバの女王
- 3 第2章 ザイド派イマームの1,000年――北部に根づいた宗教的伝統
- 4 第3章 「南北分断」の固定化――オスマン、英領アデン、そして割譲
- 5 第4章 1962年――サウジがイエメンに介入した「最初の戦争」
- 6 第5章 マルクス主義の南イエメン――冷戦が引いたもう一本の線
- 7 第6章 1990年の統一と、1994年の内戦
- 8 第7章 フーシ派の誕生――ザイド派復興と「6次にわたる戦争」
- 9 第8章 「アラブの春」から、2014年の首都制圧へ
- 10 第9章 2015年のサウジ介入から、2022年の停戦まで
- 11 地図で見る対立の舞台
- 12 なぜフーシ派はサウジを攻撃するのか
- 13 投資家はどう受け止めるか――紅海・原油・保険
- 14 関連サービス
- 15 出典
いま、何が起きているのか
2022年の国連仲介による停戦で、イエメン内戦は数年間、比較的落ち着いていました。ところが2026年6月以降、その停戦が崩れ、戦闘が全面的に再燃しています。国際移住機関(IOM)によると、再燃後だけで20万人以上が避難したと報じられています。
2026年10月に入ると、国際承認のイエメン暫定政府が、フーシ派が実効支配する首都サナアの奪還を狙う大規模作戦を宣言。これに対しフーシ派は、リヤドのキング・ハリド国際空港やアブハ国際空港など、サウジ各地の空港へ弾道ミサイルやドローンで攻撃を仕掛けたと主張しました(サウジ側は一部を否定)。複数の報道では死傷者が出たとされ、一部の航空会社がサウジ路線を一時停止しています。
ここで、ニュースを読み解くうえで欠かせない前提を一つ。「イエメン対サウジ」という単純な国同士の戦争ではない、という点です。サウジを攻撃しているのはフーシ派(アンサール・アッラー)という武装組織で、国際的に承認されたイエメン政府はむしろサウジ側に立っています。つまり内戦と地域対立が重なった、入り組んだ構図なのです。なぜこれほど複雑になったのか――それは、イエメンが「分断」を宿命づけられた土地だったからにほかなりません。順を追って歴史をたどっていきましょう。
第1章 古代――「幸福のアラビア」とシバの女王
イエメンは、アラビア半島の南西端に位置します。砂漠のイメージが強い半島の中で、イエメンはインド洋のモンスーン(季節風)がもたらす雨に恵まれ、古くから農業と交易で栄えました。紀元前の昔から、ここにはシバ(サバア)王国やヒムヤル王国といった高度な文明が花開きます。旧約聖書や伝承に登場する「シバの女王」の地とも伝えられ、灌漑のために築かれたマーリブのダムは、古代世界の驚異の一つに数えられました。
豊かさの源は「交易」でした。イエメンは、乳香や没薬(もつやく)といった香料の産地であると同時に、インド洋交易の結節点でもあります。後の時代には、港町モカ(ムハ)がコーヒー積み出しの拠点として世界に名を知られました。「モカ」がコーヒーの代名詞になったのは、この港に由来します。あまりの豊かさに、古代ローマ人はこの地を「アラビア・フェリクス(幸福のアラビア)」と呼びました。砂漠の半島の中で、イエメンだけは別格の”緑の国”だったのです。この繁栄の記憶は、後の時代の誇りと、裏返しの喪失感の両方につながっていきます。
第2章 ザイド派イマームの1,000年――北部に根づいた宗教的伝統
イスラム教の時代に入ると、イエメン北部の歴史を決定づける出来事が起こります。9世紀末(897年頃)、北部の町サアダに、シーア派の一派であるザイド派の指導者(イマーム)が宗教国家を築いたのです。以後、このザイド派イマームの系譜は、形を変えながらも実に1,000年以上にわたって北部山岳地帯の政治と信仰の核であり続けました。
ここが、現在のフーシ派を理解する最初の鍵です。のちに登場するフーシ派は、このザイド派の宗教的伝統を背負う人々であり、本拠地もまさにサアダ。つまりフーシ派は、どこからともなく現れた新興勢力ではなく、1,000年続く北部山岳部の歴史的な地盤の上に立っているのです。山がちで中央政府の統制が及びにくい北部では、部族社会と宗教的権威が結びつき、外部勢力への強い抵抗の伝統が育まれていきました。
第3章 「南北分断」の固定化――オスマン、英領アデン、そして割譲
16世紀以降、強大なオスマン帝国がイエメンに進出します。しかし北部山岳部のザイド派イマーム勢力は粘り強く抵抗を続け、完全には支配されませんでした。この「中央から支配されにくい北部」という構図は、現代まで一貫しています。
歴史が大きく動いたのは1839年。大英帝国が、紅海の出口に近い南部の要衝アデンを植民地化します。アデンは、英本国とインドを結ぶ航路の給炭地として戦略的に重要でした。これ以降、イエメンは「オスマン(のちに王国)が支配する北」と「英国が支配する南」に、くっきりと分断されていきます。南北が別々の宗主・別々の制度のもとで百年以上を過ごしたことが、後の統一を難しくする遠因になりました。
そしてもう一つ、現在の対サウジ感情に直結する出来事が1934年に起きます。北イエメンとサウジアラビアが戦火を交えたのち結ばれたターイフ条約で、イエメンはナジュラン・ジザン・アシールという国境地帯の3州をサウジに譲り渡しました。この「失われた領土」の記憶は、現在に至るまでイエメン側の対サウジ感情の底流に残っていると指摘されます。つまり、イエメンとサウジの緊張は2015年に始まったのではなく、90年以上前から下地があったのです。
第4章 1962年――サウジがイエメンに介入した「最初の戦争」
現代のニュースだけを見ると、「サウジが2015年からイエメンに介入している」と理解しがちです。しかし歴史をさかのぼると、サウジとイエメンの代理戦争には”原型”があります。それが1962年の北イエメン革命です。
この年、北イエメンでは軍の将校たちが千年続いたイマーム王政を倒し、共和国の樹立を宣言しました。しかし旧王党派は山岳部で抵抗を続け、国を二分する内戦に突入します。ここに、当時の中東を二分していた二つの勢力が介入しました。アラブ民族主義を掲げるエジプト(ナセル政権)が共和派を支援し、王制を守りたいサウジアラビアが王党派を支援したのです。これは「アラブの冷戦」とも呼ばれる地域覇権争いの一幕であり、サウジがイエメンの内政に軍事的に関与する構図は、このとき確立されたと言えます。エジプトはこの泥沼の戦いに多くの兵を投じ、「エジプトのベトナム」とも評されました。
投資家の視点で押さえておきたいのは、「サウジにとってイエメンは、半世紀以上前から”隣の火種”であり続けている」という事実です。2015年以降の介入も、2026年の再燃も、この長い因縁の延長線上にあります。
第5章 マルクス主義の南イエメン――冷戦が引いたもう一本の線
一方、南部では別の物語が進みます。1967年、英国がアデンから撤退すると、南部にはアラブ世界で唯一のマルクス主義国家(南イエメン人民民主共和国)が誕生しました。ソ連・中国と結びついた社会主義の南と、相対的に保守的な北。両者はしばしば国境で衝突し、南部内部でも1986年に激しい権力闘争(内戦)が起きるなど、不安定さを抱えていました。
ここで重要なのは、「南北」という分断線が、宗派(北=ザイド派が多い/南=スンニ派が多い)だけでなく、冷戦のイデオロギー対立とも重なっていたという点です。イエメンという土地には、宗派・部族・南北・東西冷戦という複数の断層が折り重なっていました。この”重なり”こそが、統一後も繰り返し噴き出す対立の正体です。
第6章 1990年の統一と、1994年の内戦
1990年、東西冷戦の終結という追い風の中で、北イエメンと南イエメンはついに統一されました。後ろ盾だったソ連が弱体化し、南が単独では立ちゆかなくなったことも背景にあります。統一イエメンの実権を握ったのは、北部出身のアリー・アブドゥッラー・サレハ大統領。彼はこの後、2012年まで長期にわたって国を統べることになります。
しかし統一は、対立を解消したわけではありませんでした。わずか4年後の1994年、南部が再分離を求めて蜂起し、短期の内戦に発展します。北主導の政府軍がこれを制圧しましたが、「統一後に冷遇された」という南部の不満は根深く残り、のちに南部運動(南部の分離・自治を求める動き)として再燃します。実は現在も、アデンを拠点とする暫定政府の内部には、南部独立を志向する勢力(STC=南部暫定評議会)が併存しており、反フーシ陣営は決して一枚岩ではありません。
第7章 フーシ派の誕生――ザイド派復興と「6次にわたる戦争」
ここでようやく、主役であるフーシ派が登場します。1990年代、北部サアダのザイド派社会では、自分たちの宗教的・文化的アイデンティティが周縁化されているという危機感が高まっていました。この復興運動を率いたのがフセイン・バドルッディーン・アル・フーシ。運動の名「フーシ派」は、彼の一族の名に由来します(正式名称はアンサール・アッラー=「神の支援者」)。
サレハ政権はこの動きを警戒し、2004年に武力弾圧に踏み切ります。この戦闘で創始者フセイン・フーシは殺害されますが、運動は彼の死によってむしろ結束を強めました。以後2010年まで、フーシ派と政府軍は実に6次にわたって戦争を繰り返します。この間に、2009年にはサウジ軍も国境を越えて直接交戦しており、フーシ派にとって「サウジは敵」という構図は、このころすでに刻み込まれていました。度重なる戦闘を生き延びたことで、フーシ派は実戦経験豊富な武装勢力へと鍛えられていったのです。
第8章 「アラブの春」から、2014年の首都制圧へ
2011年、中東を揺るがした「アラブの春」の波がイエメンにも及びます。大規模な抗議運動の末、33年間権力を握ったサレハ大統領は退陣し、副大統領だったハディが暫定大統領に就きました。しかし移行プロセスは混乱し、経済は悪化、各地で権力の空白が生じます。
この空白を突いたのがフーシ派でした。2014年9月、フーシ派は首都サナアを制圧。皮肉なことに、かつて自分たちを弾圧した旧サレハ大統領の勢力と一時手を組み、一気に勢力を広げます(この同盟は2017年にサレハが殺害されて崩壊します)。2015年初頭にはハディ大統領が首都を追われ、南部アデンを経て国外へ亡命。国際承認の政府が自国の首都を失うという異常事態となりました。
第9章 2015年のサウジ介入から、2022年の停戦まで
隣国でイラン寄りとされるフーシ派が首都を握った事態を、サウジアラビアは安全保障上の重大な脅威とみなしました。2015年3月、サウジはUAEなどと連合を組み、「決意の嵐」と名づけた大規模な空爆作戦を開始します。目的はハディ政権の復帰でした。しかし、山岳地形と部族社会を知り尽くしたフーシ派を空爆だけで排除することはできず、戦争は泥沼化。多数の民間人犠牲者と深刻な人道危機を生み、「世界最悪の人道危機」とも呼ばれました。
長い消耗戦の末、2022年4月、国連の仲介で停戦が成立します。翌2023年には、中国の仲介でサウジとイランが国交を正常化し、地域全体に和平ムードが漂いました。この数年間、イエメンは比較的静かでした。――しかし2026年、その停戦は崩れ、本稿冒頭の「全面再燃」へとつながっていきます。歴史は、再び因縁の軌道に戻ってしまったのです。
地図で見る対立の舞台
言葉だけでは位置関係がつかみにくいので、地図で整理します。ポイントは、①フーシ派が首都サナアを含む北西部(紅海沿岸側)を握っていること、②暫定政府は南部アデンを拠点にしていること、そして③フーシ派支配地域のすぐ目の前に、世界有数の海運の難所バブ・エル・マンデブ海峡があることです。
バブ・エル・マンデブ海峡は、紅海とインド洋をつなぐ幅わずか数十kmの出入り口。ここを抜けた船はスエズ運河を通って欧州へ向かいます。フーシ派がこの海峡の至近に陣取っているという地理そのものが、後述する投資リスクの核心になります。
なぜフーシ派はサウジを攻撃するのか
ここまでの歴史を踏まえると、フーシ派がサウジを狙う理由が立体的に見えてきます。単一の動機ではなく、歴史・宗派・地政学が折り重なっているのです。おおむね次の4つに集約できます。
①報復――サウジは2015年から(さらに言えば1960年代から)イエメンに関与し、空爆を続けてきました。フーシ派にとって、サウジ本土への攻撃はその直接の報復という位置づけです。
②歴史的遺恨――1934年の国境3州の割譲や、北部が長く周縁化されてきたという積年の不満が、対サウジ感情の土台にあります。
③代理戦争の構図――スンニ派の大国サウジと、シーア派の大国イランの地域覇権争い。フーシ派はイランから兵器・資金の支援を受けているとされ(イラン・フーシ派の双方は否定)、イランが主導する「抵抗の枢軸」の一角を自任しています。
④交渉カード――サウジの空港や石油施設など経済の中枢を叩くことは、軍事的圧力であると同時に、停戦交渉を有利に運ぶための「カード」でもあります。
イエメンの戦火そのものは遠い出来事に見えても、その火の粉は「海峡・原油・保険料」という経路で、世界の物価と私たちのポートフォリオに届きうる。
投資家はどう受け止めるか――紅海・原油・保険
中東の紛争が市場に効いてくる経路は、大きく3つです。いずれも「イエメン国内」ではなく、その周辺の海と資源を通じて波及します。
戦況や被害の数字は、交戦当事者の発表に依存する部分が大きく、独立した検証が難しいのが実情です(攻撃の「主張」と相手側の「否定」が食い違う例も多数)。本稿の数値・経緯も報道時点の情報であり、その後に変化しうる点にご留意ください。歴史の記述も諸説あるテーマを含みます。原油価格や運賃への影響も、紛争の長期化・沈静化の双方のシナリオがあり、一方向の決めつけは禁物です。
1,000年の歴史をたどって見えてくるのは、「イエメンの対立は根が深く、短期の停戦では消えない」という現実です。だからこそ投資家に必要なのは、恐怖で反応することではなく、「どの海峡・どの資源・どの保険料に効くか」という経路で捉え直す冷静さです。中東リスクに過度におびえる必要はありませんが、エネルギー・海運・物価を通じた波及経路を知っておくことは、分散投資の判断材料になります。特定地域の一国に資産を寄せすぎない「地理的分散」の発想が、こうした局面では効いてきます。
中東・資源情勢を踏まえた資産の地理的分散について、Meti Lux Partnersが個別にご相談を承ります。まずは公式LINEから、お気軽にどうぞ。
公式LINEで相談する ▶関連サービス
出典
Al Jazeera「Yemen war: What’s the latest on the battlefield」(2026年10月)/TIME「Houthi Attacks on Saudi Airports」(2026年10月)/Council on Foreign Relations「Global Conflict Tracker: Conflict in Yemen and the Red Sea」(2026年閲覧)/国際移住機関(IOM)避難民報告(2026年)/イエメン近現代史・ザイド派イマーム朝・1962年北イエメン内戦に関する各種百科事典および歴史資料。数値・経緯は報道時点のもの。
